三人は夏目漱石の弟子であり、崇拝者でありました。三人は一高、東大の同級生で、大変仲良しです。
大正のはじめ野上豊一郎が東京神田を歩いていたら、岩波茂雄が古本屋でデンと座っているのに驚きました。「君は何をしているのか」とたずねたら、「俺は本を出版して日本人皆なの教育をするのだ」と言っていたそうです。本を売り出す時、今と同じように広告が必要です。墨字で大きな字を書いて壁に貼りました。
豊一郎は字がうまいので、広告の字は豊一郎が書きました。弥生子は、墨をするのを手伝わされたそうです。
三人は、大変仲が良くて死んだあとも一緒に居ようという事になり、鎌倉市の東慶寺に野上と岩波と安倍能成の三人の同じ形をした墓が三つ並んで建てられております。野上弥生子もそこへ葬られたわけです。
弥生子に一番影響を与えたのは、当然夫の野上豊一郎です。
岩波茂雄は、昭和13年日英交換教授として渡欧する夫豊一郎にぜひ同伴するようにすすめ、遂に弥生子に同行の決心をさせたのは岩波茂雄でした。
1年近く家を留守にすること、渡欧の費用のこと、それにもまして伯母にちゅうちょさせたのは、明治の女性としてのたしなみだったのでしょう。行きたいのは山々だが、とても行けないと考えあぐんでいた北軽の山荘にいた伯母の所に朝突然岩波さんがたずねて来たのです。シャツに鉢巻姿で草刈がまをもったまゝベランダでの立ち話で同行すべきである、金の事は心配するなと強くすすめたのです。その岩波さんの真摯な態度に伯母もやっとふんぎれたのでしょう。なんとありがたい事でしょう。そうすすめる人、すすめられる人の火花が散ったときです。弥生子は夫と共にヨーロッパに行き、世界を広く見る事が出来ました。帰国後、伯母は「欧米の旅」を岩波書店から出版しました。
安倍能成は、ザックバランの人で、むしろ弥生子に一目おいておるように私は感じました。二人は全く遠慮のない間柄でお互い言いたい事を言いあっていたように思います。
安倍能成が一高の校長時代(昭和17年)大分高商で講演した事があります。その折、臼杵の小手川家に来て、字を何枚も書きました。安倍能成と私の父、金次郎は仲良しで、二人とも字を書くのが好きでした。安倍能成は、酒を飲んで字を書きまくりました。後年、田中フミさんの家に安倍能成の立派な額がかかっていました。私が「この能成の字は私の家にある字より上等だ」と言ったら、フミさんは、あの時、小手川の小父さんから呼び出されて墨をすらされた。帰る時、一番良い字をもらって帰ったとの返事です。
安倍能成が随筆「巷塵抄」を出版した時、その本を私は大変気持ちよく読みました。私は夏目漱石の小説「硝子戸の中」を読むようだと安倍能成に感想の手紙を出しました。安倍先生からは、北京の陸軍経理学校に在学中の私にお礼の手紙が参りました。学徒出陣の連中がその手紙を見て、「小手川、何故お前は安倍能成を知っているのか」と尋ねられたものです。
安倍能成は戦時中一高の名校長と言われました。昭和21年、文部大臣となりました。その時、来日したアメリカ教育使節団との初会合で、戦勝国のアメリカが力は正義なりの立場で日本に臨む事がないように要望し、その毅然とした態度に日米両国人に大きな感銘を与えました。その後、学習院院長を20年間つとめました。
フンドーキン醤油株式会社
会長小手川力一郎
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