弥生子の死について、死亡時間等で間違った本がありますので、正確に書きます。
3月29日、通いのお手伝いさんが来て、朝9時すぎ弥生子の寝室に入ったところ、弥生子は寝台の横に倒れておりました。となりに住む長男素一夫婦と、三男燿三夫婦をすぐ呼びました。長男と三男が寝室に入ったら、温風暖房がつけられていたから、多分、トイレに行ったあと、ベッドにあがろうとして倒れたのでしょう。二人で伯母をベッドに寝かせて、近くの病院の藤原忠通先生に往診を依頼しました。
意識は比較的明瞭で、血圧は120と80、心電図は変化なし、しかし、高齢である事から明日入院させようと決めました。次男茂吉郎の娘和子が、医者の岩田裕吉に嫁いでいるので、岩田医師に夕方来てもらいました。
岩田医師が看護婦を連れて成城の自宅に着いたのが、午後8時頃です。到着してすぐ血圧をはかったところ、血圧は上が90前後に下がっていました。心配になって、その夜は看護婦だけでなく、岩田医師も泊る事に致しました。意識は明瞭で「小田切さん(日本近代文学館館長)にお酒を三本おくりましたか」と尋ねたり、看護婦さんが入ってきた時、「お世話になります」と挨拶したりしました。まさか翌朝息をひきとるとは、家族も感じていなくて、燿三さんと医者と看護婦を残して、他は解散しました。
夜中に、突然燿三さんの腕を掴んでひっぱり、「迷路、迷路、中共に逃げる」と言うので、「省三のこと」と燿三さんが聞いたら、「そう」と答え、又静かになりました。
翌朝6時頃、嘔吐があり、脈が取れなくなりました。長男夫婦を呼びにやり、岩田医師と看護婦さんと燿三さん夫婦6人にみとられながら、苦しむ事なく静かに息をひきとりました。
3月30日朝、6時35分でした。
振り返って見ますと、昭和59年5月6日に白寿の祝いをした頃から、伯母の耳は、わずかではあるが遠くなり始めました。それまでは20才の若者の耳と全く違いがありませんでした。秋には更に耳が遠くなり、伯母もその事に気づき、私に向かい「電話で話をする時や、お前と二人で話す時は差し支えないが、そばで他人がこそこそ話をしておると、その内容がわからなくなった」と言っていました。
また、伯母が正座して真剣な顔で話をする時は大変な迫力があり、たじたじしたものでしたが、その迫力が年の暮れから少し薄らいできたような感じを受けていました。しかし、ご本人はいたって元気で、「私、なかなか死なないわよ。あなたたちは私より先に死んではだめよ」と言って、長編「森」を完成さすべく内村鑑三の日本的キリスト教の研究に打ち込んでいました。
次男の茂吉郎さんが体の調子が悪くて入院、伯母はその事を聞いて、例年より早目に北軽井沢の山荘から東京へ引っ返しました。茂吉郎さんの病気は順調に快方に向かい、退院間近でしたが、60年3月20日肺炎を併発し、一時危篤状態になりました。その時、病人の茂吉郎さんは「母より先には死ねない」と何度もつぶやいていたそうです。10日後、母の突然の死を知らせたところ、悲しむと同時に「母が自分に余命をくれたのでしょう。早く退院して母にご挨拶せねば」と言っていました。野上弥生子一家の親子の情愛の深さを感じたものです。
通夜は身内だけで成城の自宅で行われ、私共はかねがね伯母の懐かしんでいた臼杵の精進料理を手わけして持参しました。家族の人たちも鎌倉の東慶寺の和尚も「こんな料理は東京では味わえない」と故人をしのんで食べてくれました。
葬儀は日本晴れの3日、東本願寺別院で行われ、続いて火葬、夕方成城の自宅で初七日をしました。納骨は4月24日夫の豊一郎が待ちわびる鎌倉東慶寺の野上家の墓へ。分骨は生涯の大半をすごした北軽井沢の山荘と、こよなくなつかしんだ臼杵市へ。
フンドーキン醤油株式会社
会長小手川力一郎
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▲弥生子の臨終に立ち会った親族。
岩田祐吉・和子夫妻(右から2人目と4人目)。中央が筆者・小手川力一郎さん。
左端は妻の絢子さん。
右端は祐吉・和子夫妻の子供で裕美子さん。
▲北軽井沢大学村の山荘にて
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