- 夏目漱石の書
- 弥生子が28才で、「ギリシャローマ神話」を出版した時、夏目漱石が序文を書いてくれました。その序文の中に「小さい子供を育てながら、弟さんの世話をしながら、よく翻訳をした」と漱石がほめてくれました。ところが、それを見た弟の小手川金次郎は「俺は姉の世話になっていない。赤ん坊の素一を風呂に入れてやった。世話をしているのは、こちらの方だ。あんな事を漱石に書かれたら面白くないから、俺は姉の家を出ていく」と言って行李をまとめました。義兄の野上豊一郎が困って、状況を漱石に話したら、弟さんは何が好きかねと漱石から聞かれたので、弟は書が好きですと答えたところ、漱石が弟さんにあげてくれと書を書いてくれました。
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- 與君青眼客共有白雲心
- 不向東山去日令春草深
漱石山人書
〔訓読〕
君と青眼の客共に白雲の心あり
東山に向って去らず日に春草を深からしむ
と書いてあります。それが今、臼杵の野上弥生子文学記念館にある書です。ところが、漱石の書をもらった小手川金次郎も頑固者で、俺は何も漱石から書をもらういわれはないと言って、上等の味噌を差出人の名前だけを書いて贈りまた。漱石は礼状を書くのに住所がわからずに困り、野上豊一郎に、君の弟さんの住所を教えてくれと手紙を出しました。後年、金次郎は漱石の話をする時、この話を持ち出して漱石はとにかく律義な人だと感じいっておりました。戦後、弥生子が臼杵に帰った時、その漱石の書を弥生子に見せたところ、弥生子は「これは漱石の字ではない。漱石はもっと上手だ」と言いました。金次郎は腹をたてて、どもりながら当時のいきさつを話し、漱石の字に間違いないと言いはりました。弥生子は「そう」と返事をしながら納得しなかったようです。伯母は当時の事は忘れてしまったのでしょう。
フンドーキン醤油株式会社会長
小手川力一郎
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▲夏目漱石
漱石の門下生であった夫豊一郎の薦めで、弥生子は木曜会の文学的雰囲気を知り、漱石の指導を受け漱石によって世に出た。
漱石の書
- 夏目漱石書簡(明治40年1月17日)
- 秀作『明暗』に対しての率直な感想と小説の書き方を教えている最初の弥生子宛書簡
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