優しく、
そして厳しかった
伯母の思い出
私が小学生だった昭和五年から十年にかけて、伯母・野上弥生子は、たまに臼杵に帰郷しました。優しく、時に口やかましい伯母でした。一年に一度、伯母が年末に送ってくれるチョコレート一箱が、私達五人姉弟にとって、とてもうれしく、待ちこがれたものでした。小学生時代の私にとっては、伯母そのものよりも、チョコレートの印象の方が強烈でした。私の大分高商時代(昭和十六〜十八年)、六ヶ月間、伯母の家に厄介になり、また、十七年の夏、北軽井沢の山荘で一ヶ月間起居をともにしました。終戦後は上京の折、年に三、四回、伯母の家に遊びに行ったものでした。以上のふれあいによる伯母の思い出を綴ってみました。
家庭を大事に
伯母は家庭の人でした。主人(野上豊一郎)を大事にし、三人の息子を大切に、そして厳しく育てました。伯母の文筆仕事も、家庭生活の寸暇をさいて、毎日少しずつ積み重ねていったものです。伯母にとっては、家庭が第一で、文筆は第二でした。家庭生活を乱すような事は一切しませんでした。外部での文士との交際や政治活動などは、伯母にとっては無縁なものでした。多忙な伯父を助けながら、三人の男の子を病気もさせず、戦死もさせず、長男素一を京大文学部教授(イタリア文学)に、次男茂吉郎を東大理論物理学教授に、三男燿三を東大実験物理学教授に育てあげたのは見事と言うほかはありません。私が伯母の家にお世話になっていた昭和十六年は、私が十九歳、伯母が五十六歳、伯父は法政大学の文学部長、長男素一はローマ大学に文部省から派遣され、次男茂吉郎は九大の先生、三男燿三は東大の学生でした。朝食と夕食の時、伯父、伯母、燿三さんと私の四人は、茶の間で顔を合わせました。お手伝いさんがいましたが、御飯は伯母がよそってくれました。伯母は優しく、そして几帳面な女性でした。
フンドーキン醤油株式会社会長
小手川力一郎
|