▲二王座歴史の道の「お休み処・旧真光寺」前、30段ほどの石段を登り詰めたところに
片切家はあります。
▲長屋門をくぐったその奥が母屋。八三郎の遺児である豹太郎、勝彦、平山ヨシキ、中
根貞彦の4兄弟はこの家に生まれ、母マツエと死別するまでここで育てられました。
長男の豹太郎は長じてこの屋敷に戻り、晩年までここで暮らしたそうです。
▲太刀を肩にした24歳の八三郎。土佐藩士の一人と狐拳をやって負けた瞬間の写
真である。
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歴史が感じられる武家屋敷や神社仏閣が街中に姿を見せる臼杵。アーケードを中心
とした繁華街からわずかに離れた場所に、「二王座歴史の道」があります。
歴史に彩られたこの辺りは、狭い石畳をはさんで古い蔵や漆喰の武家屋敷、モダンな洋館などが立ち並び、ゆっくり散策するのに良い界隈。
上級の武家屋敷が連なる辻から入ると、 「お休み処・旧真光寺」の前に、長い石段が目に入ります。その石段を登りつめたところが旧片切家です。
片切家は、臼杵藩士として知られる家でした。片切善左衛門と妻の間に跡継ぎがい
なかったために、16才で水谷左門教高から養子となった八三郎為之(ヤサブロウタメナリ)が、名将として臼
杵の歴史に名をとどめています。
八三郎は20才の時に妻を得て片切家を継ぎ、明治初期、剣道修業のために高知へ赴
きます。
その頃から剣士として頭角を現わし、高知藩中にも右に出る者はなく、かえって教えを乞われていたほどでした。
その名将・八三郎が明治10年6月1日、薩摩軍による臼杵来襲により31才の若さで
戦死します。天満社で傷を負った八三郎はひとりで西田へ下り、狭い一筋道の両側か
ら十数人に取り囲まれました。剣技に優れた八三郎は奮戦し、数人を倒してさらに前
から来る薩軍を切ろうとして刀を振り上げたところに後ろから一刀を浴びせられ、無念の死を遂げたのです。
その死の直前、4人の子を連れた妻は、槍を人夫にかつがせて急ぐ八三郎と辻口で
ばったり顔を合わせました。その時、八三郎は家族を見てにっこり笑っただけで、戦いの場へと消えて行ったというエピソードが残っています。
<旧片切家>
■住 所/臼杵市ニ王座
*見学はできません
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