▲二基の仁王像は、鎌倉後期から室町前期の作で国指定特別
史跡。凝灰岩製で、台石に 立ち膝から下が地中に没した姿をしています。いずれも鼻の一部が欠損していますが、
病気回復に対する信仰によって削られたものです。
▲五重塔は、鎌倉末期の正和4年(1315)の作。明治初年まで2基ありましたが、洪水
で流され、昭和6年、7年の発掘調査で破損が多数出土し、原形のまま復元されまし
た。
▲玉
津姫が顔を洗い、痣がとれて見る見るうちにきれいになったといわれる淵。それ以
後、「化粧の井戸」と呼ばれています。
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国道10号より臼杵石仏を通ってさらに車で2〜3分奥へ入ったところに満月寺があ
ります。ここは、真名野長者の発願によって百済の僧・連城法師が創建したと伝えら
れるお寺です。
そこには、真名野長者の娘・般若姫の悲恋がありました。 このお寺にゆかりのある真名野長者とは、子供の頃に両親を亡くし、炭焼きの又五
郎という人に引き取られた小五郎のことです。
小五郎が長者になったいきさつには、 奈良のお姫さまとの出会いがありました。奈良に久我大臣の娘に玉
津姫というお姫さ まがいて、年頃になって顔一面に黒いあざができてお嫁のもらい手がないため、三輪
明神様にお参りしました。すると「三重の里にいる炭焼き小五郎と一緒になると末は
長者になるであろう」というお告げがあったのです。
姫は、はるばる都から小五郎の ところへやってきました。そして持って来た黄金を小五郎に渡しましたが、価値がわ
からず投げ捨ててしまいます。
しかし、その黄金と同じものが淵から沸き出している のを発見し、その淵で姫が顔を洗うと、たちまち黒いあざが消えてきれいになりまし
た。そして黄金を拾い集めて金持ちになり長者と呼ばれるようになったのです。
そのふたりの間に般若姫という娘が生まれ、橘豊日皇子(後の用明天皇)と結婚しま
した。その後、皇子は都へ帰ることになり、女の子を出産した般若姫は娘を両親に預
け、ある日、皇子を慕って船で都へと向かいます。
しかし船は荒波にのまれ、般若姫 は亡くなりました。娘を失った長者夫婦はひどく悲しみ、供養のために石仏を彫り、
こお満月寺を建立したという逸話が残っています。
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