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野上弥生子エピソード【17】


北軽井沢大学村

 野上弥生子は、毎年北軽井沢大学村へ行きます。昭和3年開村以来60年間大学村で夏を過ごしました。戦後は6ヶ月が大学村で、6ヶ月が東京でした。
 法政大学の学長、松室致先生は、広大な土地(山)を持っており、 それを法政大学の先生方に昭和3年(1928年)に坪1円で分譲しました。電気が来たのは昭和4年、水道が引かれたのは昭和5年です。
 草津温泉と軽井沢の間に鉄道が走っておりました。大正15年(1 926年)開通、昭和37年(1962年)廃線。大学村までは1時間半です。草軽電車はトイレもなく、私は駅でとび下りて畑に小 便をしたものです。その間、運転手に出発を待ってもらいました。
 軽井沢に来ていた岩波茂雄さんが、その土地を見て大変気に入り、 一家をあげて移り住みました。そして、皆にこの土地を宣伝したので、安倍能成、宮本和吉、田 辺元、三木清、津田左右吉、谷川徹三、岸田国士、市河三喜先生等が家を建て始めました。 
 私が初めて大学村に行ったのは、昭和16年です。
 野上の伯母から、これを配るようにと言われて、臼杵から送って きた魚の干物を安倍能成、市河三喜、吉田健一の家に伯母のお使いで届けた事があります。三軒各々相当の距離があります。当時の大学村は、自然を残すため舗装してある所は1ヶ所もなく、でこぼこ道です。入村当時植えた唐松が大きく繁っておりました。現在の大 学村は、縦2km、横1kmの面積で、舗装された4mの道路が斜めに1本だけ走っております。あとは全部でこぼこ道です。昭和3 年開村当時のままです。
 大学村の土地は村民のもので、舗装も道路も家の建築も約300 軒の村民が合議制で決めております。家が建てこまないためと又、お金持ちに土地を買い占められない ために、1軒が500坪の土地になっています。
 野上豊一郎と弥生子夫妻は、昭和3年の村開き以来の住民で、開 村50周年記念に弥生子は名誉村民になりました。
 安倍能成は、学習院の院長時代、野上弥生子の家の離れに当時の 皇太子殿下をお連れして、弥生子は皇太子殿下と二人きりで話をした事があります(昭和27年)。
 その離れは、廊下もない二間の家で、昨年(平成8年)軽井沢の 高原文庫に移築されました。
 野上弥生子は、戦災で東京を焼け出されたあと、昭和19年北軽 井沢の山荘に引きこもり、ジャガイモを植え、近所から野菜や卵を買って飢えを凌ぎました。夏の間に薪を集め、冬の寒さを凌ぎまし た。
 終戦前後の4年間は、夏も冬も1年中、山荘にこもり、読書と創 作にふけりました。同時に、食料確保に大奮闘致しました。
この北軽井沢大学村の山荘生活によって、創作活動に集中できた事は非常に大きい意義があったと思います。
フンドーキン醤油株式会社
会長小手川力一郎


移築された離れ


離れ


山荘


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